町田平和委員会ブログ。

もし8.15で終わっていなかったら、 九州南部、関東への連合軍上陸で、数百万人が死亡したかも知れない! 「オリンピック作戦」「コロネット作戦」についての 町田平和委員会のブログだよ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

1945年9月8日午前8時、東京に向けて原町田を出発した


1945年9月8日午前8時、歴史に残る自動車縦隊が、その目的地である東京に向けて原町田を出発した。

(茅ヶ崎市史の現代2、「茅ヶ崎のアメリカ軍」 )

 同書164ページの解説によれば、
 「(1945年8月30日に)厚木基地に着陸したマッカーサー元帥と前後して、占領軍本体の第1陣、第11空挺師団の兵員を乗せたC-54型輸送機約60機が、同基地に厚木飛行場に車輪を降ろした。

 「(同師団は直ちに、平塚以西を除く)神奈川県下各地に展開した。」

 「マッカーサーのペット」と呼ばれていた第1騎兵師団(第8郡所属)は、
「1945年9月3日、横浜に上陸、直ちに原町田に入り、5日後(8日)、東京に進駐、師団司令部を開設した。」(以上、解説より)

(以下、第1騎兵師団占領日誌より)

 「1945年9月8日午前8時、歴史に残る自動車縦隊が、その目的地である東京に向けて原町田を出発した。

 第1騎兵師団師団長ウィリアム・C・チェースWilliam C. Chase少将が率いるこの縦隊には、戦争のクライマックスに師団管下の全部隊が参加できるよう、各部隊から一名ずつの古参兵が入っていた。

 八王子、府中、調布を通過し、東京市域に入ったところで、自動車部隊は一旦停車した。

 チェース少将は東京市域への境界線を越えた。
 これによって、アメリカ陸軍は正式に東京に入ったことになり、"ファースト・チーム”の記録にもうひとつの"ファースト”が付け加わったのである。

 少将に続いて入城したオクラホマ州オタワ郡フェアーランドのポール・デイヴィス Paul Davis上等兵は、正式に東京に第1歩を印した最初の兵士となる栄誉をになった。
 これにより同上等兵は、東京に足を踏み入れた最初の郷土出身兵士として、故郷の外地勤務退役軍人会から1,000ドルの賞金を授与された。
 デイヴィス上等兵は、第12騎兵連隊"D”中隊の隊員であった。」
(以上、第1騎兵師団占領日誌p.166より。適当に改行し、読点を加えた。)

 「コロネット作戦」では、東京攻略のシナリオとして、
「茅ヶ崎に上陸した部隊は、相模川沿いに厚木、淵野辺周辺まで北上し、多摩川の渡河地点を確保した上で3つに別れる 一つは横浜占領部隊。原町田付近から東に道をとり横浜に進行し、」とある。

 作戦計画の「原町田付近から東に道をとり横浜に進行」が実際は、
日本の降伏=同作戦の中止によって、逆コース(横浜に上陸、直ちに原町田に入り)となり、さらに原町田から「八王子、府中、調布を通過し、東京市域に入った」わけだ。

 とはいえ、当初の作戦計画の、「3つに別れる」真ん中のコースをたどり、23区へと展開したことになる。

 この第1騎兵師団占領日誌には、もし日本の残存部隊が上陸後の米軍部隊に攻撃をしかけたならば、相当の犠牲を米軍側にもたらしただろう、とのべている。

 ところが、実際はほとんどそうした抵抗はなかった。
 日本軍武装解除に続き、武器弾薬の摘発などが続くが、少なくとも、1947年の新憲法がうたった「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という九条の中身が、形作られて、それが自衛隊(およびその前身)発足まで続いていくことになる。

同作戦に関連して、とりあえず町田関連の部分を拾いました。(つづく)

スポンサーサイト


  1. 2006/10/29(日) 18:23:40|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

| ホーム |

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。